如来滅後五五百歳始観心本尊抄

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 第一章一念三千の出処を示す          天台大師があらわした「魔か止観」の第五の巻につぎのようにあります。(一念三千をあらわすのに三千世間と三千如ぜとあるが同じことである。それは開と合のちがいなのである)      「そもそも生命には、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の十類の界をそなえている。その一つの界にまた十種の界をそなえているので合して百種の界となる。この百種の界の一界ごとに、十如是と三世間を合した三十種の世間をそなえているので、百種の界にはすなわち三千種の世間をそなえているのでおる。この三千世間は一念の心にそなわっている。もし心がないのならそれまであるが、わずかでも心があれば、すなわにち三千世間をそなえているのである。だから、名づけて不可思議境となすのである。意はじつにここにあるのである等と。(ある本には「一界に三種の世間をそなえている」とある)問うていうには、天台の「法華玄義」に一念三千の名称をあかしているでしょうか。答えていうには、妙楽大師は「明かしていない」といっています。問うていうには、天台の「法華文句」に一念三千の名称をあかしているでしょうか。答えていうには、妙楽は「明かしていない」といっています。問うてうには、その妙楽の解釈はどうでしょうか。答えていうには、妙楽は「止観ふ行伝弘決」に「ならびにいまだ一念三千といっていない」等といっています。問うていうには、天台の「魔か止観」の一・二・三・四の巻なとに一念三千の名称をあかしているでしょうか。答えていうには、その名称はありません・問うていうには、その証拠はどうですか。答えていうには、妙楽は「止観ふ行伝決」に「ゆえに「魔か止観」第五巻のまさしく観法をあかすにたって、ならびに一念三千をもってその指南としたのである」等といっています。  疑っていうには、「法華げ義」第二には「また一つの界に他の九の界をそなえているので百界となり、一界ごとに十如是をそなえているから、百の界には千如是となる」等とあります。   「法華文句」第一には「一入に十種の界をそなえているから、一界に十界を互具して百界となる。十界それぞれ十如是があるので、すなわち千如是である」等とあります。天台大師のあらわした「観音玄義」には「十法界がたがいに十界をそなえているのですなわち百法界となり、百法界に十如是をそなえて千如是となる。その千種の如是は冥伏して心にある。目の前に現われていないといっても、はっきりとそなえている」等とあります。問うていうには、「魔か止観」の前の四巻に一念三千の名称を明かしているでしょうか。答えていうには、妙楽は「明かしていない」といっています。問うていうには、その妙楽の解釈はどうなのでしょうか。答えていうには、妙楽は「止観ふ行伝弘決」の第五の巻に「もし「魔か止観」第五の巻正観章第七にたいすれば、まったくいまだ観心の行を論じいない。

 

 

 

 

 

鳥が居る森

 生命の続く限り、私は書き続ける。正しい仏法とは何か。正しい人生とは何か。そして、何が歴史の「真実」か。人間にとつて「正義」の戦いとはなにかを。そこに、人類の未来を開く、一筋の道があるからだ。                               

 民衆のなかへ。この不滅の魂の炎の連帯のなかにこそ、新しき歴史は生まれゆく。 民衆ほど、確固たる土台はない。民衆の叫びほど、恐ろしきものはない。民衆の前には、いかなる権力者も、富豪も、名声も、煙のようなものである。

 

 

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